歴史に名を残した英雄と戦乱

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北条時宗

鎌倉幕府五代目執権・北条時頼の子として生まれたのが、北条時宗である。幼少期に資質を見出され、次代を担う者として英才教育を受けた時宗は、14歳にして執権の補佐役となり、その後わずか18歳で第八代執権に就任する。ちょうどこのころ、文永の役と弘安の役…元寇が起こる。属国になるよう求める、元の皇帝フビライ・ハンの使者が何度も訪れたが、時宗はことごとく無視。この対応に腹を立てたフビライは、文永十一年十月、元、高麗兵約三万数千の船団を送った。一時は元軍による博多占拠を許してしまい、日本軍は太宰府まで後退する。が、暴風雨によって元軍は撤退。辛くも難を逃れた日本だが、弘安四年七月、今度は二隊に分かれた約十四万の大軍が博多湾に押し寄せる。そしてこの時も、暴風雨によって壊滅状態になった元軍は撤退。日本側はこれを「神風」と呼び、その後の「神国日本」のイメージに結びついていく。

禅宗に帰依した時宗。されど平安の日々は訪れず、わずか34歳で病死。

元を退けた時宗だが、幕府には問題が山積していた。一番大きいのが、元寇での恩賞問題。元を撃退したが、国内の戦と違って得られる土地もなく、また相手もわからないため、戦功の審査は困難を極めた。弘安七年3月に発病した時宗は、6日後の4月4日に出家するが、同日中に34歳の若さでこの世を去る。短命の家系であったとも言われるが、伝染病などの記録もないため、心労による過労死だったとする説もある。

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