歴史に名を残した英雄と戦乱

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明智光秀

天正十年、主君である織田信長を本能寺で急襲し、自害させた明智光秀は「三日天下」という言葉でもよく知られている。本能寺の変の後、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れ、落ち延びる途中の山科で土民に殺された、とされる光秀。しかし、実は光秀は生きていた、という説がある。姿を変えた光秀は徳川家の相談役として活躍した、とされるが、その人物が天台宗の僧・天海である。上野の寛永寺を建立したことで知られる天海は、「黒衣の宰相」と呼ばれるほど深く政治にかかわっている。光秀・天海共にその前半生は不明瞭で、天海の経歴がはっきりするのは、慶長四年に武蔵・喜多院の住職となってからである。家康と対面したのが慶長十二年頃、天海72歳、家康66歳の時とされるが、家康はすぐに天海を信頼し、何事も相談するようになる。もし、天海が光秀だったなら、旧知の間柄で親しかった家康とすぐに意気投合したのも不思議ではないだろう。

光秀=天海説を裏付ける(?)こんなお話も…

比叡山の松禅寺には「慶長二十年奉寄進願主光秀」と刻まれた石灯籠があるが、これは光秀が死んだとされてから34年後に寄進されたものだ。また、かつての光秀の所領に建つ、京都の慈眼寺には、光秀の木像と位牌が安置されているが、天海の諡がこの寺と同じ“慈眼”なのだ。さらに、信長の比叡山焼き討ちにただ一人反対したのも光秀。僧として比叡山に身を隠し、家康と組んで仇敵・豊臣家を滅ぼした、というのも納得がいく。

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