歴史に名を残した英雄と戦乱

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鑑真

仏教が盛んになってきた8世紀の日本。同時に、僧侶の秩序が乱れ、堕落も始まっていた。そのため、僧尼の模範となる戒律を確立し、正式な戒を授けることのできる高僧が待ち望まれていた。天平五年、第九回遣唐使に同行した僧の容叡と普照は唐から高僧を招く、という特命を帯びていた。そこで彼らは、唐の揚州で鑑真に会い、日本の状況を伝え、その願いを語った。それを聞いた鑑真は、55歳と言う当時としては高齢の身でありながらも、自ら日本に渡る決心をした。天平十五年から10年の間に、4回の渡航計画が建てられたが、いずれも嵐や密告のため、出国すらできず失敗。天平二十年、5回目の渡航でやっと出国できたものの、嵐のためにはるか南の海南島に漂着してしまう。一行はここで1年を過ごした後、揚州へと帰るが、この頃から鑑真は失明状態となる。そして第10回目の遣唐使の帰りの船に密航し、ようやく日本の薩摩へ辿りついた。

日本の仏教界の基礎を築き、建築や美術の最新技術も伝えた鑑真

天平勝宝六年、鑑真は難波津より平城京に入る。日本での授戒を一任された鑑真は大僧都に任ぜられ、東大寺の大仏殿前で聖武天皇、孝謙天皇に授戒した。その後、天平宝宇三年に唐招提寺を建立し、ここを戒律の研究所・講堂とする。また、鑑真に従って来日した者たちが、建築や美術の最新技術を携えてきており、唐招提寺は天平建築の中で、もっとも完成されたものとされる。

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