歴史に名を残した英雄と戦乱

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寺坂吉右衛門

播磨赤穂城主・浅野内匠頭長矩の仇を取るべく、元禄15年12月14日、高家肝煎吉良上野介義央の邸に討ち入りをした四十七士。当時足軽だった寺坂吉右衛門だけが、唯一生き残った赤穂義士である。吉良邸への討ち入り後、裏門での点呼の際には四十七士全員がいた。その後、内匠頭の墓がある泉岳寺へ行ったのは44人。いなくなった3人のうち、吉田忠左衛門と富森助右衛門は、大目付の屋敷へ口上書を届出に行き、翌年の2月4日に44人と同様切腹している。では、残る一人である寺坂吉右衛門がこれに加わらず、切腹を免れたのはなぜであろうか?これには、家老・大石内蔵助と忠左衛門の命令で戦列を離れたとする説と、討ち入り後に逃亡したとする説がある。内蔵助や忠左衛門が、吉右衛門は命惜しさに逃げたのだろう、と言ったことから逃亡説をとる人もいるが、その後の吉右衛門の行動を見るとそうではないようだ。

討ち入りから40年以上生きた吉右衛門は、四十六士とともに眠る

討ち入りから3年後、吉右衛門は他の四十六士同様、切腹を申しつけてほしいと自首するが、翌年、将軍綱吉生母の法要の大赦令で放免されている。また、亀山に住んでいた忠左衛門の妻子は伊藤十郎太夫の家に移るが、吉右衛門もこの家に身を寄せ、約12年に渡り妻子の世話をする。このような経緯から、吉右衛門逃亡説は否定されそうだ。83歳で亡くなった吉右衛門の墓は、義士たちが眠る泉岳寺にも造られている。。

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