歴史に名を残した英雄と戦乱

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ペリー

18世紀末、マシュー・ペリーはアメリカ海軍の軍人の家に生まれる。16歳になったペリーは、兄たちと同様に海軍へ入り、米英戦争に参加。様々な活躍の後、アメリカ海軍初の蒸気船・フルトン号の造船監督を務め、2号船の艦長となった。その後ペリーは大佐の地位までのぼり、「アメリカ蒸気船海軍の父」と呼ばれるようになる。当時、捕鯨船や貿易船の燃料・食糧などの補給を日本の港で行いたいと考えていたアメリカは、日本との友好条約を結ばせるようペリーに命じた。新しい任務に燃えたペリーは、政府に対し12艦の大艦隊を要求するが、トラブルが重なり、結局ノーフォーク港を出たのはミシシッピ号1艦のみ。その後上海で3艦と合流し、最終的に浦賀に着いた艦隊は4艦であった。そして、日本到着の翌年、1854年3月に日米和親条約を締結。下田と箱館を開港させ、アメリカ船に燃料や水の補給をすることなどを認めさせた。

政権交代によりペリーの功績は低評価。ペリー失意の帰国。

日本との交渉に成功したペリーのもとに、ホイッグ党のフィルモア大統領に代わり、民主党のピアーズ大統領が選出された、との知らせが入る。新大統領は前政権の政治路線を否定し、ペリーの功績を十分に評価しなかったのだ。失意のペリーは、なぜか郵便船や陸路を使い、9カ月後に帰国。帰国後のペリーは、のちの経済大国化や日米の競争を予言した「遠征記」の執筆に没頭する。3年後、ペリーは静かな最期を遂げた。

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