歴史に名を残した英雄と戦乱

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応仁の乱

京都を舞台に、細川勝元中心の東軍約16万と、山名持豊中心の西軍約11万が争った応仁の乱は、元号が応仁に改められた1467年に始まった。争いの要素が複雑に絡み合い、抗争は大規模化して行った。畠山家では、家督を譲られた持国やその子・義就の派と、持国の甥で養子の政長の派の争いがあった。政長派には、細川勝元の支持がある。一方、斯波家では、嗣子のいないまま没した義健の後を継いだ義敏と、その後に家督を得た九州探題渋川氏の一族・義廉の派の対立があった。細川勝元は義敏を、山名持豊は義廉を支持している。さらに、足利将軍家では、義政に男子が無かったため、出家していた弟義視を還俗させ、後継者としていたが、翌年正妻富子が義尚を生むと、義尚を将軍にしたい富子が山名持豊を頼ったため、義視を支持する細川勝元との対立が深まった。応仁元年、優位が細川方から山名方へと移行すると、乱が勃発した。

家督争いによって幕府は失墜。戦国の世へと突入する。

東軍が有利な状態が続いていたが、大内政弘が加わったことで西軍も劣勢を挽回し、抗争は長期化していく。文明5年に山名持豊と細川勝元が相次いで亡くなると、争いは転機を迎える。それから4年後の文明9年、11年にも渡って続いた応仁の乱は、勝敗がはっきりしないまま事実上の終結を迎えた。こうして幕府の権力は急速に衰え、全国に飛び火した合戦は形を変え、戦国の世へと突入していく。

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