歴史に名を残した英雄と戦乱

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大政奉還

慶応三年、徳川十五代将軍慶喜は、朝廷へ政権を返上することを申し出た。これによって、徳川家は約260年間我がものとしていた政権を手放すこととなり、慶喜は江戸幕府最後の将軍となった。しかし、慶喜に権力を手放すつもりは毛頭無かったのだ。幕府のような組織がなく、執政力のない朝廷は、いずれ政権をもてあまし、結局は自分たち徳川家に権力が戻ってくるだろうと画策していた。そして10月14日、慶喜は、上表文に「政権を朝廷に返す」の一文のみを記し、朝廷に政権の返上を申し出る。翌15日には勅令が与えられ、大政奉還が認められたが、その背後では西郷隆盛ら倒幕派が動き始めていた。朝廷に執政力がなかったのは事実で、22日になると当面の政治を徳川家に委ねることとなる。当初の思惑通り、慶喜はひとまずの政権維持には成功した。しかし、慶喜の考えは西郷らに見抜かれていたのだ。

慶喜が予想だにしなかった“王政復古の大号令”

1867年12月9日、“王政復古の大号令”が発せられ、徳川家の実権は全て失われることとなった。その夜、天皇臨席のもとで開かれた小御所会議において、慶喜の辞官と納地が決定される。それでもなお、慶喜は自分が権力を失ったとは思っていなかった。12月16日に大阪城で六カ国の公使を引見した慶喜は、自分が変わりなく主権者であることを宣言していたのだ。そして翌年1月、鳥羽・伏見の戦いが起こる。

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