歴史に名を残した英雄と戦乱

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水野忠邦

唐津藩主・水野忠光の息子である水野忠邦は、天保五年に老中へと昇進した。当時は、十一代目将軍・徳川家斉の贅沢な大御所時代が50年も続いた上に、天保の大飢饉、大規模な百姓一揆の頻発、大塩平八郎の乱、モリソン号事件などが起き、幕府は危機的な状況にあった。天保十二年に家斉が亡くなると、次男家慶は過激な政治改革に乗り出したが、その中心となったのが忠邦である。奢侈を改め、綱紀粛正、謙訳励行、風俗匡正に力を注いだ。農村の荒廃を食い止めるために、江戸に出稼ぎにきた人々を農村へ帰す“人返し令”、幕府の権力強化のために、大名・旗本領のうち、江戸・大阪周辺の土地を幕領とし、遠隔地の天領を与える“上知令”などを実施し、町人に対しても贅沢を禁じるなど、日常生活に至るまで厳しく規制した。こうして始まった天保の改革だが、大名や農民、町民らからの猛反発を受け、わずか2年半で幕を下した。

権勢も情熱も失った忠邦の末路

上知令の撤回後、忠邦は病気を理由に登城しなくなり、1週間後に解職される。その翌年、アヘン戦争に関連した外交処理のため、外交能力を買われた忠邦は再び老中に復帰するが、権勢も情熱も失っていた忠邦は、着任後わずか8カ月で辞職。天保の改革の政治責任を問われ、領地2万石を没収された後、隠居の上蟄居を命ぜられた。そして、嘉永四年2月16日、五十八歳の忠邦は病によってこの世を去った。

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