歴史に名を残した英雄と戦乱

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板垣退助

江戸時代の末に土佐藩の武家に生まれた板垣退助は、幕末には明治新政府軍を率いて活躍し、明治維新後は新政府の高官として政治の中心で活躍していた。西郷隆盛らと征韓論を主張するものの、大久保利通らに反対され政府を去る。政治の在り方に疑問を持ち、国民の意見を聞いて政治を行うべきであると主張した退助は、明治七年に土佐で立志社を結成し、その翌年には立志社を中心とする愛国社ができた。これが、自由民権運動の始まりである。そして明治十四年、退助は日本最初の政党である自由党を結成し、その党首となった。翌年4月、遊説中の岐阜で暴漢に襲われ負傷した退助が叫んだ「板垣死すとも自由は死せず」という名文句が、自由民権運動の盛り上がりを象徴する言葉となっていく。それから16年後の明治三十一年、大隈重信らとともに日本で最初の政党内閣・隈板内閣を成立。自由民権運動の盛り上がりがピークに達した瞬間である。

欲がなく清貧を好み、頑固者だった退助の寂しい晩年

政界から身を引いた退助は、社会運動家としての道を歩む。明治三十三年に中央風俗改良会を組織し、機関誌「友愛」誌上で、“社会の改良は家庭の改良から始まる”と説く、社会政策についての論文を発表。また、明治四十三年に監修・発表した「自由党史」の評価も高い。一方、もともと欲が無くて頑固者だった退助のこの頃の暮らしは清貧そのもの。屋敷の手入れをせず、電話代を払えないこともしばしばだった。

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