歴史に名を残した英雄と戦乱

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足利義教

足利義教は三代将軍義満の子で、四代将軍義持の同母弟である。義持は36歳で将軍の座を息子義量に譲ったが、そのわずか二年後に義量は亡くなる。次の将軍候補となったのが、義持の弟である、義昭・義隆・義円・義承の四人。そうするうちにも義持も病気で亡くなってしまい、くじ引きで将軍を決めることに。石清水八幡宮のくじ引きによって決まったのが、当時義円と名乗っていた義教だった。還俗して「義宣」と名を改めた義円は、征夷大将軍となった年に「義教」へと改名。永享十年から始まった永享の乱では、幕府に抵抗していた鎌倉公方足利持氏を自殺に追い込み、結城合戦では持氏の遺児を擁して挙兵した結城氏朝を倒す。結城合戦後も、一色義貫、土岐持頼を誅殺し、将軍への権力集中を推し進めていった。次は、と思われたのが赤松満祐であったが、嘉吉元年・嘉吉の乱によって、先手を取られた義教が満祐によって暗殺されることとなった。

義教暗殺後に幕府がすぐ動かなかったのは、義教のヒステリックな性格が理由?

義教はヒステリックで強気な性格の持ち主としても知られている。さらに、取り次ぎを間違えた小納言局を拷問にかけた上、強引に尼としたり、義教による延暦寺焼き打ちを批判した商人を斬首したりするなど、元僧侶であるにもかかわらず、数々の残虐行為もはたらいていた。赤松満祐討伐が決定されたのは、義教暗殺後およそ1ヶ月後のことだが、このような行為をはたらいていた義教の人望のなさも災いしたのだろう。

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