歴史に名を残した英雄と戦乱

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小早川秀秋

豊臣秀吉の正室、北政所ねねの甥として生まれた小早川秀秋は、幼少期は秀吉の養子として育てられていたが、文禄二年に小早川隆景の養子となり、わずか13歳にして筑前・筑後の領主となる。慶長二年の慶長の役では、予備隊の隊長として出陣し、蔚山城の救援に奮戦したが、本拠地の釜山を離れたのは軽率だったと叱責される。これにより、秀秋は越前・北の庄に遷されるが、翌年には徳川家康の取りなしによって、旧領に復帰。これを契機に、家康との関わりが強くなったと考えられる。慶長五年の関ヶ原の戦いでは、毛利家に従って西軍につき、松尾山に1万5千の大軍勢を敷く。その一方で、密かに東軍の家康と通じ、開戦と同時に東軍に走る、という密約を交わす。ところが、戦いが始まっても秀秋は動かない。業を煮やした家康が威嚇の鉄砲を撃ち、ようやく出撃を決心した秀秋が西軍を背後から強襲。こうして、戦いは東軍の勝利に終わった。

関ヶ原の立役者・秀秋の不遇な末路

関ヶ原の戦いでの功績によって、秀秋は備前・美作51万石に任ぜられ、岡山城の城主となる。城の改築や寺社の再整備と言った実績を残したが、世間からは「裏切り者」の烙印を押される。また、優柔不断で激昂しやすい性格を諫めた老臣を殺すなど、目に余る行為が続き、家臣たちは次々と逐電。小早川家は見る間に乱れてゆき、慶長七年、わずか21歳で秀秋は病死する。秀秋には子がいなかったため、小早川家は断絶した。

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