歴史に名を残した英雄と戦乱

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徳川秀忠

徳川二代将軍・秀忠は、家康の三男として生まれた。しかし、長兄・信康が自刃し、次男・秀康は秀吉の養子となっていたため、偶然のように秀忠が世継ぎとなったのである。秀忠の武将としての能力は乏しく、「泥人形」と揶揄されるほど。その最も大きな失態が、関ヶ原の戦いへの遅刻である。当時、上杉討伐の途上にあった秀忠は、家康の軍に合流すべく、宇都宮を出発し、中山道を西へ向かう。その途中、真田昌幸が籠城する信州上田城を攻略するが、迎え撃つ真田軍はゲリラ的戦術で秀忠の軍勢を翻弄。ここで攻めあぐんだ秀忠は、およそ一週間を費やしてしまう。攻略をあきらめ、関ヶ原へ向かう秀忠だが、今度は木曾山中の行軍、川の氾濫などで足止めを食らう。関ヶ原の戦いは9月15日のことであったが、この日、秀忠はまだ木曾の妻籠のあたりにおり、最終的に秀忠が関ヶ原に到着したのは、戦が終わって3日も経ってからのことであった。

将軍就任後、生まれ変わった秀忠は、幕府の基礎固めに尽力する

慶長十年、秀忠は将軍に就任するが、実権は大御所として駿河に君臨する家康が握っていた。以後十年に渡って駿河と江戸の二元政治が続くが、秀忠は形だけの将軍ではなかった。慶長十九年の大坂冬の陣では、関ヶ原の汚名を返上すべく、わずか数騎で京都に駆け上り、豊臣家が滅び、父・家康が死亡した後は、政治手腕をいかんなく発揮し、その後300年近く続く支配体制の確立に尽力した。

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