歴史に名を残した英雄と戦乱

HOME日本の歴史に残る英雄② > 原敬

原敬

「平民宰相」と呼ばれる原敬だが、祖父は南部藩の家老、父も藩の重役と、実際は高い家柄の出身であった。その後20歳で分家独立し、平民の身分となる。やがて、新聞記者から官僚となり、寺内正毅内閣の辞任を受け、大正7年に内閣を組織する。このとき組織された内閣が日本初の政党内閣で、政党政治家として最初の首相となったのが原敬である。世論は「平民宰相」として歓迎し、第一次世界大戦後の階級闘争激化におびえる藩閥官僚勢力は政友会に依存したため、強力な内閣となった。しかし、力による政治には腐敗が潜み、満鉄事件やアヘン事件、シベリア出兵の破たんや普通選挙運動の弾圧などで、内閣への不満が高まってゆく。そして、大正10年11月4日、京都での政友会大会に向かうため東京駅に来た原は、午後7時25分、突進してきた暴漢に襲われ刺殺される。傷は右の肺から心臓まで達しており、ほぼ即死状態であった。

犯人の勘違いで暗殺された?原敬暗殺の真相は…

犯人は大塚駅員の中岡艮一。原内閣への不満を募らせ、原暗殺を実行したとされる。その一方で、中岡の上司である大塚駅助役・橋本栄五郎も殺人教唆の疑いで逮捕される。犯行の約1か月前、橋本が「今の日本には武士道精神が失われた。昔から「腹」を切ると言って「腹」を切った例がない」と言ったのに対し、中岡が「私が「原」を斬ってみせます」と言明したという。しかし、両名は教唆を否定し、橋本は無罪となっている。

トップへ