歴史に名を残した英雄と戦乱

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高山右近

天文二十一年、高山右近は摂津高山の飛騨守の長男として生を受けた。右近の父はキリスト教信者であり、右近自身も十二歳で洗礼を受ける。高槻城城主となった右近は、荒木村重の配下となるが、天正六年、村重は織田信長に対して謀反を起こす。従来の仏教勢力を嫌悪し、新しい文物をもたらすキリスト教を厚遇していた信長だが、右近を味方に引き入れるべく、自分に従わねばキリシタンを弾圧する、と脅す。これに対し、右近が髪を剃り、丸腰で信長と対峙したことで、信長は高槻城主の地位を公認し、4万石を与える。信長の死後、右近は秀吉に従い各地を転戦しつつ、高槻・京都・安土などで教会堂を建設し、布教を奨励した。しかし、天正十五年の伴天連追放令により、領地を没収され追放される。その後、キリシタン大名の小西行長にかくまわれ、前田利家の客分となった右近だが、慶長十八年のキリシタン禁止令によって、国外追放処分となった。

所領も国も失った右近を支えたのは、キリスト教への篤い信仰心

慶長十九年、家族とともに金沢を出た右近は、百余名の信者らとともに、長崎からフィリピンのマニラへと渡る。マニラを統治していたスペイン総督は、右近の信仰と追放となった事情を聞き知っていたため、儀仗兵をともなって一行を迎え、礼砲を放って敬意を表した。しかし、マニラ到着後わずか40日で、右近は熱病により死去。深く悲しんだマニラ市民は、手厚い葬儀と盛大な追悼ミサを捧げた。

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