歴史に名を残した英雄と戦乱

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藤原道長

藤原家の全盛期を築いた道長は、藤原兼家の五男として生まれた。道長は、寛和二年に従三位に、正暦二年には権大納言となるが、長男ではなかったため、当時としては出世を望める立場ではなかった。父・兼家が亡くなると、兄の道隆が後を継ぐが、道隆の子・伊周はすでに内大臣になっていた。道長は、甥よりも位が下だったのだ。ところが長徳元年、疫病の流行で死者が相次ぎ、道長にも出世の糸口が見えてくる。こうして、道長と伊周は関白の座を巡って争うこととなる。このとき、道長を強く推薦したのが、道長の姉で一条天皇の母親・詮子である。一条天皇は、道長を関白にはしなかったものの、右大臣とし、翌年には左大臣とした。一方の伊周は、花山法皇を恋のライバルと思い込み、脅しのつもりで家来に矢を射かけさせたところ、実際に法皇の袖に当たってしまう。こうして、伊周とその弟・隆家は流罪となった。

後一条天皇の外祖父となった道長は、念願の摂政の座を手に入れる

権力を確かなものにするため、天皇の外祖父となる必要があった。一条天皇にはすでに皇后・定子がいたが、道長は娘・彰子を強引に宮中に入れ皇后とした。その後、三条天皇の後宮には娘の妍子を、後一条天皇の後宮にも娘の威子を入れ、道長の娘3人が三代の天皇の妃となった。そして長和五年、後一条天皇を位につけ外祖父となり、念願の摂政の位に就いた。このときに詠んだ「この世をば」の歌はあまりにも有名である。

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