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聖徳太子
用明天皇の皇子である聖徳太子は、敏達三年、母親の間人皇女が厩で産気づき、そのまま出産したことから厩戸皇子と名付けられた。太子は、叔母である推古天皇の摂政として、冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣など数多くの功績を残した。また、太子は深く仏教に帰依し、法隆寺や四天王寺を建立した。推古三十年、太子は斑鳩宮で病没するが、その後太子の子孫は蘇我入鹿によって滅ぼされてしまう。推古天皇の没後、太子の子である山背大兄王は、田村皇子(後の舒明天皇)と皇位の座をめぐって争い、蘇我蝦夷に妨げられた。一族は、皇極二年、斑鳩宮にいるところを急襲される。逃げ延びられないと悟った彼らは、斑鳩寺に入りそろって自害。このとき、斑鳩宮は全焼し、天智九年には斑鳩寺も落雷によって焼失した。太子の数々の功績は「日本書紀」に記され、法隆寺にも多くの資料が残されている。
「聖徳太子は実在しなかった」説も登場。厩戸皇子を理想化したのは誰か?
厩戸皇子が実在したことは間違いないのだが、その厩戸皇子が理想的な聖徳太子その人であったか、というと疑問符が浮かぶ。例えば、十七条憲法には飛鳥時代には存在しない役職が登場し、同憲法や冠位十二階を制定した、とされる人物は日本書紀において「皇太子」と記載されるのみである。1つの仮説として、山背大兄王が自分の父を有力者と見なさせるため、聖徳太子として押し出したのではないか、と主張する者もいる。