歴史に名を残した英雄と戦乱

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シーボルト

ドイツ生まれのシーボルトは、医学や博物学を学んだ後、1823年に出島のオランダ商館付医師として来日し、鳴滝塾で高野長英ら多くの蘭学者を育てた。医学を教えるかたわら、シーボルトは日本の植物や地理などを調べ、多くの資料を集めた。しかし1828年、シーボルトの帰国直前に、シーボルト事件が起きる。暴風雨で破損した船に積まれた彼の荷物から、国外への持ち出しが禁じられていた日本地図やその他の資料が発見されたのだ。これにより、地図は没収され、地図を渡した高橋景保は投獄、シーボルト自身も国外追放となった。しかし、すでに写しを持っていたシーボルトには何ら影響がなく、帰国後には日本に関する多くの資料を発表し、ヨーロッパにおける日本学の専門家として名を上げた。このように、シーボルトは、実は植民地再編のため、日本の資料集めと研究を目的として、オランダが送り込んだドイツ人のスパイだったのだ。

日本開国をめぐる、ペリーとの遺恨

シーボルトの日本研究書「日本」を高く評価していたペリー。アメリカ艦隊の派遣計画を知ったシーボルトは、自分を遠征隊に加えるよう盛んに運動した。彼を顧問にして「人道と忍耐」で交渉すれば成功する、と主張。だが、追放された者を連れて行けないと判断したペリーはこれを拒否。開国後、日本開国の栄誉は主としてオランダやロシアが担うべき、と主張したシーボルトだが、ペリーによって冷笑されるだけであった。

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