日露戦争
日清戦争後、ロシアは満州への侵略を進め、朝鮮半島への影響力も強めていった。ロシアの朝鮮支配は防衛上危険であると考えた日本は、東アジアの権益を守りたいイギリスと同盟し、さらにはアメリカの支持も得た上で、朝鮮と満州に関してロシアと粘り強く交渉した。しかし、結論を見ないまま対立が深まり、日本国内でも主戦論が高まっていく。明治37年2月8日、日本陸・海軍がロシアを攻撃し、10日に宣戦を布告。こうして、日露戦争が始まった。当時のロシアにとって、日本は関心の無い小国で、対日本の作戦もなかった。一方、三国干渉から「臥薪嘗胆」で力を養った日本は、圧倒的に不利な軍事力であったにも関わらず、国家の存亡にかかわる「国民戦争」の決意で臨んでいた。陸軍では、第三軍司令官・乃木稀典が旅順を攻略。海軍では、連合艦隊司令長官・東郷平八郎が日本海海戦でバルチック艦隊を破り、勝利をおさめた。
日露戦争後、ロシアは革命の道を歩み、日本は帝国主義に走る。
ポーツマス条約の調印をもって、日露戦争は終結。敗戦したロシア国内では、国内の不満や政府批判が次第に高まり、開戦時から戦争に反対していた社会主義への関心も大きくなる。これがロシア革命の引き金となり、レーニンの活躍に結びつく。一方の日本では、軍備拡張を戦後経営の基軸とし、産業基盤の整備や国民の軍事的組織化が急速に進む。そして、後の帝国主義的傾向へとつながっていく。