歴史に名を残した英雄と戦乱

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西南戦争

明治維新の立役者・西郷隆盛は、参議として新政府の中心となる。しかし、明治6年には、対朝鮮の外交政策をめぐる政府内での対立が明らかになった。朝鮮を侵略するという征韓論は、明治政府が、断絶していた国交の回復を朝鮮に申し入れたものの、国書の形式の違いを理由に朝鮮側に拒否されたことに端を発する。西郷は、まず朝鮮に使節を送るべきで、自分がその使節になると主張。さらに、西郷は自分の意見が通らなければ参議を辞任する、と言ったため、一旦は西郷を朝鮮に派遣するということになった。しかし、これを天皇に上奏する三条実美が心労に倒れ、その代わりを務めた岩倉具視が、西郷の派遣は不可能だと天皇に述べ、裁可を得てしまう。こうして征韓論は葬られ、憤激した西郷はすぐさま参議を辞職。下野した後、鹿児島で悠々とした暮らしを始めた西郷だったが、この頃から各地で士族の反乱が頻発するようになる。

日本最後の内戦“西南戦争”から自由民権運動へ

鹿児島には西郷が設立した私学校があり、当初は学校であったが、次第に西郷を党首とする政治結社となり、鹿児島の行政と警察組織を牛耳るようになった。そして、政府側の大久保利通の挑発に乗った西郷は、明治10年1月、西南戦争を起こす。西郷軍は熊本城に立てこもった政府軍を攻撃するが果たせず、九州南部を転戦。鹿児島に戻った西郷が見たのは、壊滅状態の故郷であった。この西南戦争が、日本最後の内戦となる。

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