島原の乱
備前の島原、備後の天草は、小西行長、有馬晴信らキリシタン大名が統治する地であり、家臣や民衆にもキリシタンが多かった。その後、松倉氏がこの地の藩主となる。松倉氏は、キリシタンを弾圧して大勢を虐殺しただけでなく、凶作続きであったにも関わらず重税を課し、年貢を払えない者を容赦なく殺した。そして、寛永十四年、当時16歳だった天草四郎時貞を総大将とする、島原の乱が勃発する。島原藩は、隣接する諸藩に救援を求めたが、幕府の許可なしに兵を動かせないという理由で、静観の構えを取る、一方の松倉氏は、原因が自分の失政にあることを隠すため、この一揆をキリシタンの反乱だと印象付けようとした。しかし、反乱軍にはキリシタンだけでなく重税に苦しむ農民たちもたくさんいた。やがて反乱軍は4万近くまで膨れ上がり、争いは藩全域に及ぶ。ここに至って、事の重大さに気付いた幕府がようやく兵を動かす。
天草四郎時貞とは一体何者だったのか?正体不明のまま、乱は鎮圧される。
四郎の父・益田甚兵衛は、かつて小西行長に仕えた武士であった。四郎は文字を習わないうちから、聖書を解し、さまざまな奇跡を起こしたとされている。人々は、そんな四郎こそが神の使いに違いないと信じた。寛永15年2月27日、28日の総攻撃で原城は陥落し、反乱軍の全員が虐殺される。討ち取られた四郎の首が本人のものという証拠も、反乱軍の資料もすべて不明のまま、島原の乱は鎮圧された。